富太郎の日常101 『白河越え』

 「宮城のみなさん、東北のみなさん、おめでとうございます。100年開かなかった扉が開きました。」と

夏の甲子園で初優勝した 仙台育英須江監督。  6年3か月、人生の約10分の1を秋田で暮らした

富太郎も、喜びのお裾分けをいただいて、今回は『東北』で。 まあ、嬉しいこと。

  青 森

 職場の同僚 トラちゃん が、地元で結婚式を挙げるというので、職場やテニス部から大挙して雪の青森へ。

40年近く前のことで、新幹線は盛岡まで。それまで静かだった車内が、盛岡で在来線の特急に乗り換えた

途端に、あちこちからお国訛りのおしゃべりが。空気が変わりました。 富太郎、初の雪国で、革靴が

滑る、滑る。 結婚式終了後の2次会では、地元のお友達も交えて、大盛り上がり。宿に戻っての3次会に

トラちゃん 本ん人がいつまでも居たけれど、あとで揉めなかったのでしょうか・・・。

 そう言えば、テニス部の こわし先輩は、翌日の日曜日に娘のあすかちゃんと約束があるからと、当日の

夜行で帰ったのを思い出しました。

 青森と言えば、1969年愛媛の松山商業との決勝。引き分け再試合で惜敗した、三沢高校 太田幸司投手。

1試合目の延長は、三沢高校が何度かサヨナラのチャンスをつかんで押していたのだけれど・・・。

「幸ちゃんフィーバー」とまで言われた太田投手は卒業後(当時は弱かった)近鉄へ。 『太田幸司です。

タイムです。ナショナルです。』というラジカセ(?)のテレビコマーシャルに出ていました。

  岩 手

 MLBで大活躍の大谷君も、先輩の菊池君も、花巻東高校。夏の甲子園ではなかなか勝ち進めませんが、

地元出身で世界に羽ばたいているというのは、素晴らしいと思います。ほんと、野球留学、多いですねぇ。

 花巻は、個人的には、富太郎家唯一の全国大会応援がハンドの選抜大会で、会場が花巻でした。

3月で、花巻東のグランドがまだ雪に埋もれている中、1つ勝って2試合目。接戦も1点差で負けた日は

雨。駅まで雨の中をトボトボと歩いた記憶。脇を会場から駅までのシャトルバスが・・。聞いてないよぉ!

  秋 田

 そもそも、第一回大会の決勝で秋田中学が、京都二中にサヨナラ負けしていなければ、100年開かずの

扉にはならなかったのだけれど。残念。 4年前の「金農旋風」は記憶に新しいところですが、実は金農、

初出場の時もベスト4まで勝ち進んで、桑田・清原のPLに惜敗しましたが、旋風を巻き起こしました。 
来春、エースだった吉田君の弟が進学予定で「旋風ふたたび」との噂も。

 富太郎が秋田市在住の時は、「秋田経法大付属(現:明桜)」が準決勝まで勝ち進み、大盛り上がり。

その主役が、1年生エースの中川君。卒業後ドラフトで阪神へ。 さかのぼること、その大会のあった年の

春先、富太郎が近くの定食屋さんでご飯を食べていた時に、近くで入学前と思われる坊主頭の高校生3人と

監督風の男性1人が料理待ち。隣ではおばあさんが一人で、日本酒を飲んでいたのですが、高校生の1人に

お猪口を渡して日本酒を勧めはじめました。困って監督を見る坊主頭。監督は、お猪口を受け取り注がれた

日本酒を飲み干して、お猪口をおばあさんに返していました。優しいねぇ。夏にテレビで中川君を見た時、
「あっ、あの子だっ!」と思いました。 富太郎のアパートと学校はそんなに離れていなかったので。
 今年の春の選抜では、中川投手の息子さんが、和歌山東の選手として、甲子園でブレーしていました。
  宮 城
 職場のH先輩の息子さんは、仙台育英の内野手として春・夏甲子園出場。ああ「そんな親子もいるんだ」
と、富太郎には現実感がなかったというのが正直なところですが、旧知の女性職員の高校生の娘さんが、
「きゃあきゃあ」言っているというのを聞いて、なんかテレビのこっち側と向こう側がゴッチャになった?
 王者 大阪桐蔭 が負けてしまったのも、そんなヒーロー扱いされていたのが、気が付いたら球場全体から
ヒール役を押し付けられて、心乱れたのが原因なのではないかと思う次第です。良いのか悪いのか・・・。
 大学生のころ、北海道旅行に行って、岩尾別ユースに泊まった時に教えてもらったのが『岩尾別旅情』。
♪「北の涯て 知床の 吹く風はつめたく 波荒いオホーツクに 白いかもめはあそぶ ・・・」
作詞・作曲 さとう宗幸。 帰ってすぐにレコードを買って、何度も聞いていたところ、その年の
レコード大賞新人賞を、渡辺真知子の「迷い道」と争ったのが、このさとう宗幸さんの「青葉城恋唄」。
残念ながら「迷い道」に負けてしまいましたが、さとうさんは、その後「2年B組仙八先生」という
「金八」系のドラマの主役も務め、今も仙台を中心にパーソナリティーとして活躍しているようです。
  山 形
 桑田・清原のKKコンビが甲子園を席捲していた1985年、エースの故障もあってPL学園に29対7
とボコボコにされたのが、東海大山形。この試合の9回に、春の選抜に続いて清原がマウンドに上がったの
ですが、大差がついてたこともあるせいか、球審から「カーブなんか投げるな」と注意を受けたそうです。
今年の大会でも、「今日の試合ができたことは奇跡だ」とか「元気を出して」と球審が励ましているとの
記事が見られました。本業ではない審判の方たちの熱い情熱に、深く頭の下がる思いです。
 生産性本部の診断実習で都合2回、約3週間にわたってお世話になった、JR仙山線山寺駅近くの
『ペンション山寺』が忘れられません。食事の美味しかったこと。一緒の班だった 伊予のバカ殿(自称)
などは、毎回の食事を写真に収めていたほど。アユの塩焼きを美味しいと思ったのは、あの時だけかも。
  福 島
 1971年、決勝で神奈川桐蔭学園に唯一1点取られて負けたのが、磐城高校の小さな大投手 田村投手。
青森三沢高校が決勝で敗れた2年後で、次に東北の学校が決勝まで進むのは、18年後になります。
 あの頃は夏の甲子園が終わってしまうのが寂しく、閉会式後の両校場内一周も見て、中継が続いていれば
選手のインタビューまで見ていました。この年の桐蔭学園のエースはアンダースローの大塚投手。NHKの
アナウンサーの「残りの夏休み、どうしますか?」との質問に、「適当に遊びます。」と答えていました。
 ドカベンの「里中ちゃん」は、このお二人がモチーフなのではないかと、富太郎は踏んでいます。
 福島と言えば、大河では「八重の桜」推しなのですが、富太郎的には、高校の林間学校(安達太良山)を
当日熱を出して欠席したのが、痛恨の極み。やぐちがサンショウウオを丸呑みした等面白そうだったのに。

 今年もたくさん感動をいただきましたが、
 怪物くんみたいな帽子の被り方だけは
 馴染めなかった     富太郎
 (あくまでも、個人的見解です。)


 フォト/4年前、100回大会のヒーローズ
  金足農業(秋田) 吉田輝星 投手
  日ハムにドラ1で入団し、徐々に
  1軍での登板機会も増えているよう。
  頑張れ!!













2022年08月26日