富太郎の日常バックナンバー

2021富太郎の日常インデックス
 NO    日付       「テーマ」
 22    1/ 1   「今年どうなる?」
 23    1/ 9   「青春小説 私の3冊」
 24    1/16   「私の東京百景3 渋谷」
 25    1/31   「司法書士試験」
 26    2/26   「春の歌 私の3曲」
 27    3/ 5   「私の東京百景4 御茶ノ水」
 28    3/12   「交通事故」
 29    3/19   「春は選抜から」
 30    3/26   「どっち派?」
 31    4/ 1   「あてとふんどしは・・・」
 32    4/ 9   「富太郎の好きなもの 第一集」
 33    4/16   「私の東京百景5 錦糸町」
 34    4/23   「昭和32年(度)生まれ」
 35    5/ 1   「サザン 私の3曲」
 36    5/ 7   「2021年4-6月ドラマ」
 37    5/14   「私の東京百景6 立川」
 38    5/21   「エール」
 39    5/30   「さだまさし 私の・・・」
 40    6/ 4   「梅雨のあとさき」
 41    7/ 6   「贅沢」
 42    7/16   「鬼に金棒」
 43    7/23   「東京五輪 富太郎注目の3人」
 44    7/30   「東京五輪観戦記 1」
 45    8/ 5   「東京五輪観戦記 2」
 46    8/ 9   「東京五輪観戦記 3」
 47    8/14   「お楽しみはこれからだ」
 48    8/20   「カセットテープ」
 49    8/27   「夏の甲子園」
 50    9/ 4   「夏の終わり・9月」
 51    9/10   「HEROもしくは刑事訴訟法」
 52    9/17   「注射」
 53    9/24   「富太郎が暮らした街 大館」
 54   10/ 2   「引退」
 55   10/ 8   「議員さん」
 56   10/15   「ノーベル文学賞」
 57   10/22   「感想戦(合否を分けた3問)」
 58   10/30   「亀」
 59   11/ 6   「古見さんは・・・」
 60   11/12   「安住と羽鳥(どっち派?3)」
 61   11/19   「10%オフ」
 62   11/26   「東野圭吾 私の・・・」
 63   12/ 3   「私の東京百景7 千住」
 64   12/10   「薬師丸VS原田(どっち派?4)」
 65   12/17   「クリスマス・ソング 私の3曲」
 66   12/24   「もういくつ寝ると」
 67   12/30   「2021 私のふりかえり」

 

サイトの不具合の修正に失敗し、消えてしまった『ブログ』のバックナンバーです。
※順次「再掲載」していく予定です。

富太郎の日常24 『私の東京百景3 渋谷』         令和3年 1月16日

今年の「節分」は2月2日(例年は2月3日)。
節分が、「2日」になるのは、1897年以来、124年ぶりだそうです。
で、天下の渋谷に町制がひかれたのが1909年(ちなみに「区」になったのは、1932年)。
前回2月2日が節分だった時、渋谷はまだ「村」でした。
東京の西部(山間部)、五日市町(現あきるの市)が町になったのが1889年。
『五日市が町になったとき渋谷は村だった』というのも、東京で「こそっ」と語り継がれている伝説です。

 さて、そんな「渋谷」の富太郎の記憶をいくつかご紹介させていただきます。

 ○ PARCO劇場 (西武劇場) 
「私の東京百景 吉祥寺(富太郎の日常19)」でちらっと触れましたが、富太郎は高校時代「演劇同好会」
に所属していて、初めてちゃんとした演劇を見たのが、PARCO劇場の「椅子と伝説」という 別役 実
作品。当時(高校)演劇といえば 別役 実 でした。が、残念ながら、内容はまったく覚えていません。
余談ですが、その後、早実(当時は男子校)演劇部の「戦争で死ねなかったお父さんのために」を見て
衝撃を受けます。作者は つか こうへい 。現在に至るまで、つか時代は続いています。

その流れで、大学の教養で「戯曲」を読む武市ゼミを履修。やはりPARCO劇場で 安部公房 の
「案内人」というお芝居を観ました。が、やはり内容をまったく思い出せません。
また、余談ですが、この武市ゼミのメンバーというのが、変人富太郎がしごく「普通」と思えるほどの
個性派ぞろい。例えば 「いっしょうけんめい肇くん」は、宴会中、誰も聞いてないのに、突然落語を
語りはじめるとか・・・。(いつか書きます。)

当時、富太郎にとって「渋谷」は文化の匂いのする街でした。あくまでも、富太郎にとっては、です。


 ○ 日本生産性本部 
3年ほど前に、千代田区平河町の方に移転したようですが、20代の終わりに1年間、コンサルタントの
勉強に通わせてもらった頃は、生産性本部は、渋谷区渋谷3丁目。渋谷警察のちょっと先にありました。
一緒に勉強していたのは、銀行関係の人が多かったのですが、出身母体の組織の特徴が色濃く出ていて、
興味深く、人間関係という意味でも、いろいろと学ばせていただきました。
座学だけではなく、「診断実習」といって、実際に地方の中小企業に2~3週間泊まり込みで出向いて、
診断・改善提案をさせてもらうという勉強もありました。

1年間もそんな濃密な時間を一緒に過ごさせていただいたので、修了後も、同じ地区の同窓者で集まって
ゴルフをしたり、ずっと賀状のやり取りをさせていただいたり。昨年富太郎がサラリーマンをリタイア
した時も、お葉書やメールを多数いただきました。ありがとうございました。

金融関係の方が多かったので、その後の人生も様々なようで、役員になられた方、大学で教えるように
なられた方、所属先の金融機関も色々と変遷があり、中には弁護士先生に資格を取って転職されたと
いう方まで。まあ、こちらも当時から個性的な方が多かったです。

生産性本部もまた、富太郎の人生の方向性に、とても影響のあった、ターニングポイントの場所です。


 ○ 日本政策金融公庫(国民金融公庫)渋谷支店
公庫の渋谷支店は、山手線沿いの道。タワーレコードの向い。神南郵便局の2階と3階にあります。
富太郎が就職活動でお邪魔した(富太郎の日常16『はぁちゃんママとかなもりさん』参照)ときから、
変わっていません。
実はその後、30代前半に富太郎自身が渋谷支店に職員として勤務しました。
当時は「神宮前」地区を担当していて、『なんてアパレル業の業者さんが多いんだろう』と日々痛感して
いました。時はまさにバブル。そして、それがモロに弾けた時期で、昨年破綻した『レナウン』が当時
神宮前(原宿)に本社があり、「厳しい状況」との報道があったことを記憶しています。
またまた余談ですが、テニス部の先輩「そんな浩さん」が九州から転勤してきて「レナウン娘」振付付き
で、夏合宿宴会衝撃のデビューを飾ったのは、それよりもちょっと前でした。

渋谷支店時代に、富太郎は結婚し、体育会系1号が生まれたので、ここもまた人生のターニングポイント
の場所であります。

その後、ラインを外れて、審査インストラクターになった後も、
若い人を教えに、何度か渋谷支店にお邪魔しました。
渋谷の街は、富太郎が若いころと変わったような、
変わっていないような・・・。
朝はドトール本店の「噴水」の周りの席で朝勉。
昼は、丸井の中のスタバでホットサンドで昼食
兼 読書というのが、サラリーマン最後の方の
富太郎の日常でした。
今は、毎朝、テレビのお天気カメラで、
渋谷のスクランブル交差点を見ています。

日々、家でおとなしくしている   富太郎


 「フォト/ハチ公のそばにあった
  東急5000系(通称アオガエル)
  昨年、ハチ公のふるさと秋田県大館市に移設
  されました。富太郎は大館支店にも勤務経験
  があるので、深い縁を感じます。」

 

富太郎の日常23 『青春小説 私の3冊』          令和3年 1月 9日

箱根駅伝の興奮冷めやらず。
「若い」っていいなぁ。一生懸命で。
というわけで、今回は「私の青春小説」です。


 ① 『風が強く吹いている』
  作者:三浦 しおん  2006年9月 刊   新潮文庫
駅伝といえば、この小説。舞台は「寛政大学」(モデルは、明治ではないかと思ってます。当時は低迷。)
主人公は「走(かける)」一年生。仙台城西高校出身(仙台育英?)。4年生の主将、灰二(ハイジ)に、
「走るの好きか」と声をかけられ、「竹青荘」という寮へ。そこには、個性豊かなメンバーがいて・・・。
まあ、「素人中心の10人で予選会を突破」「初出場。しかも1区で17位と出遅れ。5区のランナーは
熱を出してブレーキ。10区ハイジは、その後杖をついての生活となるようなケガ。それでもシード確保」
と、ご都合主義だけど、今年のアンカー大逆転のように『あきらめなければ、何があるかわからない』
のが、「箱根駅伝」という事で。
ライバルは、王者「六道大学(紫のジャージとあるので、駒沢か)」のエース藤岡。9区で 走 と対決。
何かと妨害、嫌がらせを仕掛けてくるのが 、走 と同じ高校出身の 神浩介 のいる「東京体育大学」。
そして10区で「寛政大学」ハイジに抜かれるのが、「(多分我らの)真中大学」。クソッ。
でも、雰囲気はよく出ていて、ドキドキさせてくれて、とても好きです。


 ② 『青が散る』
  作者:宮本 輝   1982年10月 刊  文春文庫
大阪の新設大学1期生が、テニス部を創設し、自分たちで学校の敷地内にコートを作るところから始める。
でも、「青春バンザイ」という展開ではなく、仲間の死や、実力のある下級生との衝突、その後輩の退部。
女友達(マドンナ)との別れ等々。宮本輝さん独特の、ちょっと「どょーん」とした青春小説。
当時、テニス部のマネージャーをやっていた富太郎は、食い入るように読みました。
「読み進めるのがもったいない」と思った小説は、この本が最初かもしれません。
その後、新人の「石黒賢(お父さんは、日本プロテニス界のパイオニア修さん)」「二谷友里恵(両親とも
スター)」「清水善三(祖父はウインブルドンベスト4の善造さん)」等で、TVドラマ化されました。
主題歌は、松田聖子の「蒼いフォトグラフ」。


 ③ 『蜜蜂と遠雷』
   作者:恩田 陸   2016年9月 刊  幻冬舎文庫
「直木賞」と「本屋大賞」W受賞の話題作。
富太郎は、試験前に我慢できずに単行本を購入。さすがに読んだのは試験後でしたが・・・。
内容は、国際ピアノコンクールに挑む若者4人の予選会から本戦決勝までの日々。
国際色も豊かな、16歳、20歳、19歳の中に、28歳のサラリーマン、妻子有りが1人。
当然、それぞれの登場人物に、人生があります。
作者の 恩田陸 さんは、ある雑誌のインタビュー記事の中で『才能とは「続けられること」。
ある種の鈍感さ、しぶとさを持っている人が才能のある人。』と語っていました。
この作品を書くために、同じコンクールに4年も5年も通って、構想を作品に昇華させたのは、
まさに、才能そのものだと思います。素晴らしい。
恩田作品では、「夜のピクニック」も大好きで、こちらはDVDも買ってしましました。


 もう一冊 『赤ずきんちゃん気を付けて』
   作者 庄司 薫    1969年5月 刊  中公文庫     芥川賞受賞作
前の3作とは違い、大それたことは何も起こらない、2月のある日曜日の1日の出来事。
主人公は、作者と同じ名前 薫くん で、「白鳥の歌なんか聞こえない」「さよなら快傑黒頭巾」「ぼくの大好
きな青髭」とで、『薫くん四部作』と言われています。
スキーのストックで足の親指の爪をはがして黒長靴の薫くんが、銀座の本屋(旭屋書店、2008年に閉店)
さんの前の横断歩道で、本を抱えて急いで走ってきた赤いコートを着た女の子に、けがをした足を踏まれ、
脂汗を流しながら、鼻の頭に汗をかいた女の子を何とか心配させまいと腐心する。おっとなぁ。
幼馴染で、ガールフレンドの由美ちゃんも、魅力的です。口癖は「舌噛んで、死んじゃいたい。」
 作者の奥さんは、ピアニスト 故中村紘子さん。この本の中で、薫くんが中村紘子さんの名前を出して
『こんな素敵な人にピアノを教えてもらえれば、上手になれるのに。』という場面を書いて、
それを友人から聞いた中村さんのほうから連絡を取って交際が始まり、結婚に至ったという、
曰く付きの一冊でもあります。
 富太郎的には小学校の親友(なんと薫君といった)の、中学生のお姉さんがこの単行本を
読んでいて「中学生は違うなぁ」と感心したという思い出があります。
そんな大人の入り口の本だったので「もう一冊」に。



退職したら、思う存分読もうと思っていたのに、
 「目の衰え」で、買ってもなかなか読み進めず、
 未読の本がどんどん増えている    富太郎



 フォト/「蜜蜂と遠雷」のコンクールの雰囲気に
 浸ろうと買った登場人物たちが弾くピアノ全集。
 クラシックの素養がないため、まったくリンク
 することできず・・・。 残念!



富太郎の日常22 『今年どうする?』            令和3年 1月 1日

新年 明けまして おめでとうございます。
本年も、よろしくお願いします。


去年までは、年賀状を出していたのですが、
退職を機に、今年からは失礼させていただきました。


年賀状には、毎年『今年の目標』を書いていました。
(といっても、毎年ほぼ「司法書士試験の合格」と「ゴルフスコアの自己ベスト更新」一辺倒)
今年は、このブログで月ごとの目標等を表明させていただきます。


  1月
2日、3日、箱根駅伝を全力応援。前評判良し。
「応援したいから、応援にいかない。」が、今年のキャッチフレーズ。富太郎は、毎年テレビ前で応援。
今年は、赤い『オフィシャル応援マフラータオル』を用意し、例年以上に気合入ってます。

  2月
事業者としての、初めての確定申告(残念ながら売り上げはゼロ)。
電子申告をやってみようと思っています。

  3月
1年半ぶりくらいに、幹事を務めるコンペを再開。素浪(老)人になったので、平日開催予定。
週に1度は、練習場に行くことも、今年の目標。

  4月
経産省から「認定支援機関」の認定を受け、『経営改善計画策定』のお手伝いを開始。
補助金での経営維持には限界があるはず。「その後をどう立て直すのか」に少しでもお役に立てればと。

  5月
初めて 竹内まりや のアリーナツアー(神奈川・ぴあアリーナMM)へ
「BDのマジックカードで先行抽選に当たったんじゃ。これが。」「自慢かね。」
(草刈正雄の軽トラCM風にお読みください。)

  6月
試験前の最後の追い込み。特に、予定なし。東洋大学駅伝部よろしく「その1点を削り出せ」。
加齢による物忘れと、記憶力の低下が2倍なら、3倍勉強するのみ。

  7月
4日が決戦の日曜日。
毎年の事ながら、『今年こそ』と、今年もやっぱり思っています。
帝京大学駅伝部よろしく「世界一あきらめの悪いジジイ」上等。

  8月
東京オリンピック2021、ハンドボール女子予選を5日全部、午前・午後のチケットを確保。
世界のハンドボーラーを応援(組み合わせ未定。おりひめJAPAN以外は、判官びいきで)。

  9月
東京パラリンピック2021、陸上(国立競技場)のチケットを1日だけ確保。
女子400mの 重本紗絵 選手は、元ハンドボーラー。応援せずには、いられません。

  10月
司法書士試験口述試験
「記述試験に受かっていたら」の『たられば』の世界ですが、一応予定という事で。

  11月
日本シリーズ、打倒ソフトバンク。3度めの正直。長嶋さんのためにも。王さんのところには・・・。
今年も、全力応援。こちらも「セ界制覇したら」の『たられば』の世界。

  12月
2021年を総括。ポイントは・・・。
① 小規模企業の皆さん向けの情報発信を継続できたか。
② 司法書士試験に合格できたか。
③ ゴルフは、実践復帰できたか。
④ やりたいことができるだけ、健康でいられたか。
           
各月の予定を見ると「コロナ次第」という事が多いのが、
癪に障りますが、自分のできることを『コツコツ』と
やっていく所存です。
一年が終わったときに『継続は、力なりぃ!」と
ガッツポーズができればいいなぁと思っています。

    一年の計は、元旦にあり     富太郎


  「フォト/箱根駅伝バッヂ
   前に使っていた「箱根駅伝万歩計」のオマケ。
   あ~楽しみ!」





富太郎の日常21 『2020 私の重大ニュース』      令和2年12月26日

 ♪「暦は~、もお少しで、今年も終わりでぇすねぇ~」。
コロナに翻弄された一年も、あと一週間になりました。
良くも悪くも、人生は過ぎていきますので、大変な時に恐縮ですが、個人的な総括をさせていただきます。


 ⑤ メタボ解消
「災い転じて」ではありますが、ついにウエストが85㎝を切り、目標体重70㎏を達成。
最初の特定保健指導の時にアドバイスされてつけ始めた「体重と歩数」の表は、530週目に入っています。
約10年近く。粘り強く、指導を受けることを指示し続けてくれた、健保組合に感謝です。
「歩き」の成果か、昨日現在、体重は68kgまで、減っています。
ここ、1、2年で買ったズボンがユルユルで、ちょっと困ったことになってはきましたが・・・。


 ④ 開業(「青色申告届」も)。
11月に開業届を出し、形の上では、『事業者』に。
まあ、「売上はないんだろうな。」とは思っていましたが、事業者として確定申告をしなければならない
理由があるのです。
退職後は、『認定支援機関』として、中小企業の「経営改善計画策定支援」に取り組もうと、
3年前に有給を使わせていただいて、自費で、中小企業大学校の「中小企業経営改善計画策定支援研修」を
受講、修了。実践力判定試験にも合格し、退職のタイミングで認定を受けるべく、手配をしていました。
が、書類提出後、経済産業省関東経済産業局から電話があり『在職中では、書類提出不可。退職後に
改めて電子申請してください。郵送された書類は、こちらで日付等補正して活かしますので。』とのこと。
じゃあ、退職後に改めてと思っていたら、また電話があり『この度、認定の基準が一部変更になり、
事業者として「確定申告をしていること」が要件に加わりました。提出いただいた書類は、いったん
お返しします。』と、書類も返送されてしまいました。他の部分の内容には問題ないと言っていただいた
ので、来年、確定申告をして、改めて申請予定です。
 とは言え、何も営業活動をしないのもいかがなものか、という事で「営業」「受注」「集金」機能の
が備わっている『ココナラ』さんに、お世話になっています。2か月たっても、売上は0ですが(苦笑)。
「ブログ」機能も目いっぱい使わせていただき、情報発信に努めています。
ちなみにブログの似顔絵と、わんこ富太郎は、ココナラの「ぽぽちゃんママ」さんに描いてもらいました。


 ③ 司法書士試験で、択一式初の「基準点」突破(足切り回避)
趣味として、いろいろな資格試験に挑戦してきましたが、これまでで一番多くかかった「社労士試験」の
7回を大きく上回り、まだ受からない『司法書士試験』。今年もダメでした。
が、初めて基準点を上回り、人生初、記述式の採点をしてもらえました。
結果は、記述式の基準点「満点70点中32.0点」に対し、富太郎8.5点。
(さっき結果が届き、大ショック! 予備校の再現答案の採点は、29.0点だったのに・・・(^^;))
筆記試験全体の合格点『満点280点中205.5点以上』に対し、富太郎は158.5点。 まだまだ、だな。
なぜ、富太郎は試験を受け続けるのか。「そこに試験があるから」ではなく、
『これまでに、試験にかけたお金が、もったいないから。』あぁ、けち。
すでに、来年度の戦いは、始まっているのです。
自分で引退しなければ、何回だって挑戦できます。『趣味だから。』


 ② HP開設
退職後の「生存確認」のための情報発信として、ホームページを開設し、念願のプログを開始。
まあ、好き勝手なことを書かせていただいています。調子に乗って、日々のツイッターも付加。
また、こちらも勝手に「職場の経験、ノウハウ」を『あの世には持っていけないから』、もしかしたら
誰かの役に立つかもしれないとの思いで、「審査」と「創業」のぺージも作りました。
ホームページや、ツイッターについては、全く知識がなく、また調べもせずにやっているので、
万万が一、反応いただいて、きちんと対応できていなければ、申し訳ありませんでした。ごめんなさい。


 ① 40年お世話になった公庫を退職
本当に、いろいろな方にお世話になりっぱなしで、心苦しいのですが、退職の頃、
コロナ騒動の真っただ中で、きちっとしたごあいさつもできず、すみませんでした。
この場を借りまして、改めて、お詫びと、御礼をさせていただきます。
公庫に入ったのが、昭和55年4月の立川支店。大森支店、生産性本部(1年間勉強)、秋田支店、渋谷支店、
札幌支店、小田原支店、浜松支店、江東支店、大舘支店、東京地区統轄(総括)室と転勤。。
各所で、いろいろな方に出会い、ともに苦労をし、お別れしてきました。もちろん、やりがいも。
山ちゃんや本ちゃんのように、3度同じ職場になった同僚も。
思い出したくないようなこともあったけど、まあ、人に恵まれ、楽しく、ありがたく40年を過ごすことが
出来ました。幸せなサラリーマン生活でした。
皆様に感謝です。ありがとうございました。今後とも、よろしくお願いします。
               

番 外
ここ10年ほどで、初めてコースに出ませんでした。
3月に幹事をやっているコンペを中止にして以来、
あす27日に誘っていただいていた西武園も中止となり、
ついに、今年は0に。
来年こそは、コロナが収まり、みんなで大手を振って
ゴルフができる日々が来ることを、願ってやみません。


 皆様にとって、来年がより良い年でありますように
                     富太郎

フォト/退職の日に東京地区統轄室の皆さんに
 頂いた花束。コロナ対応で、月の超勤時間が
 とんでもない状況の中、お気遣いいただき、
 誠に、申し訳ありませんでした。
 ありがとうございました。奥も大喜びでした。




富太郎の日常20 『スタジオジブリ 私の3本』       令和2年12月16日

「鬼滅の刃」ブームで、興行収入1位を更新か、という状況のなか、これまでの1位「千と千尋の神隠し」
も再公開で譲らず。との記事が新聞にでていました。
宮崎駿監督が『映画館が困っているなら』と再公開を快諾したそうです。

また、スタジオジブリのHPでは、この9月から『常識の範囲で ご自由にお使い下さい。』との
鈴木敏夫さんのコメント付きで、スタジオジブリ全作品の場面写真を順次提供しています。

今回は、その心意気に敬意を表し、私の好きなジブリ作品をご紹介させていただきます。
ジブリ作品の好みは、「ナウシカ派」と「トトロ派」に分かれると思いますが、
例によって、富太郎の個人的な趣味で選定しています。富太郎は「トトロ派」なので(理由~虫と血が
苦手だから)「ナウシカ派」の方は、ごめんなさい。

なお、題名の後の( )内の順位は、8月に発表された「文春オンラインアンケート」の結果です。

 ① 『紅の豚』 (8位) 1992年作品
  「飛ばねぇ豚は、ただの豚だ。」

 この作品はジュリーの「カサブランカ ダンディー」
を思い出させます。

 ♪「ボーギー、ボーギー。あんたの時代は良かった。
   男がピカピカの気障でいられた・・・」

 『カサブランカ』のハンフリーボガード。
 『友情の始まりだな』こちらは飛行機でした。

 「無人島のアジト」も少年の夢。秘密基地を連想。
 昨今の「ぼっちキャンプ」ブームにも、繋がりそうです。

 エンディングでマダムの声をやった加藤登紀子さんが歌う、
 『時には昔の話を』♪「今でも同じように見果てぬ夢を描いて
  走りつづけているよね どこかで」は、
  この歳になると余計に沁みます。



 ② 『魔女の宅急便』 (6位) 1989年作品
  (2014年に「トクサツガガガ」の小芝風花で、実写化)
  「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」

  「宅急便」という言葉で、クロネコヤマトとちょっと
  揉めたみたいですが、結局、スポンサー的な立場で、
  宅配といえば、クロネコを不動のものとしました。

 オープニングは「ルージュの伝言」、
 エンディングは「やさしさに包まれたなら」と
 いずれもユーミン。作品がハイカラな感じになりました。

 最後に黒猫のジジが、白猫と恋をして、子供が生まれて、
 人間の言葉がしゃべれなくなるという展開。

 魔法使いには、黒猫。
 サリーちゃんの召使カブは、カラス(黒)でしたが。



 ③ 『となりのトトロ』 (1位) 1988年作品
 「こんなへんないきものは、まだ日本にいるのです。
  たぶん。」

 「たぶん」が効いています。糸井重里さんだそうです。
子供にしか見えないもの。
 子供にしか感じられないもの。

 子供しか信じないもの。

 時代は変わっても、子供には、
 ずっとそんな子供でいて欲しいです。

 ♪「小さい頃は、神様がいて・・・」
 がいつか、
 ♪「恋人がサンタクロース・・・」
 に変わっていくのが 世の常なのでしょうが。

 ♪「傘を誰かにあげて、自分は濡れる人なんです・・・」
 アグネスチャンの歌を彷彿とさせる
 『かんた』がお気に入りの富太郎。



 もう1本 『ルパンⅢ世 カリオストロの城』
 (ジブリ作品ではありませんが、宮崎駿さんの映画初監督作
  ということで、特別にラインナップ。)

 何回再放送されても、視聴率が10%を超える人気作品。

 富太郎も、最後の場面の銭形のとっつぁんのセリフが
 聞きたくて、毎回視てしまいます。

銭形「くそ~。一歩遅かったか。
    ルパンめ、まんまと盗みおって。」
クラリス「いえ。あの方は何も盗まなかったわ。
    私のために戦ってくださったんです。」
銭形「いや、奴はとんでもない物を盗んで行きました。
    ・・・あなたの心です。」
クラリス「・・・はい。」

 くぅ~、たまりません。


 『いゃぁ、映画って、本当にいいもんですね。』
 またいつか、別の形で「私の3本」をセレクトしてみたいです。

 サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ        富太郎でした。

富太郎の日常19 『私の東京百景3 吉祥寺』        令和2年12月12日

祖母の家が「明大前」にあったので、
中央線から井の頭線に乗り換えるため
『吉祥寺』は馴染みのある駅でした。


  井の頭恩賜公園 (高校時代)  
落研に入りそびれてもぐり込んだ「演劇同好会」の後輩に、
「富太郎さん、女子高に行った友達から
『誰か紹介してくれ』って頼まれたんですけど。」
との依頼を受け、紹介したのが同じクラスで
仲の良かった”かつや”君。
(いきなりの寄り道ですが、
その後も「開園直後の東京ディズニーランド」
「ユーミンのコンサート」「星の王子様の舞台」等々、
きっかけデートの介添え人によく駆り出されていた富太郎。
『引き立て役』には打って付けのキャラだったようです。)


で、行きがかり上顔合わせに同行することになり、場所に選んだのが吉祥寺。
藤村女子高の近くにあったお城を模した外観の喫茶店(「古城」?)でお茶した後、井の頭公園へ。


どんなふうに歩いて、どんな話をしたかは全く記憶にないのですが、覚えているのは、歳の行った
象が、一匹で、そっぽを向いて所在なげにしていたこと。象の”はな子”です。
つい2、3年前、60何歳で死んだとの記事が新聞に出ていました。
あのまま何十年も、孤独で所在なげに生きたのでなければいいのですが。


その日は、サンロードの本屋さんで、英単語の暗記本を買って帰りました。


  中大球場 (大学時代)
大学1年の体育の授業は「野球」を選択(人気のため、くじ引きで当たった)。場所は当時、吉祥寺から
バスでちょっと行ったところにあった大学の野球場でした。


授業なので、雨上がりでグランドコンディションが多少悪くても強行されました。
授業の終わり近くになると「とんぼ」を持った野球部員(たぶん1年生)たちが、恨めしそうな顔をして
待機していたのが記憶に残っています。


授業が月曜日の1限で、次が午後からだったので、友人の"わかむら"君と、よく吉祥寺に戻って、
パチンコをしていました。「まったく、学生はっ!」って言われていたんだろうな、と今は思います。


大学生の頃テレビでやっていた、中村雅俊主演のドラマ「俺たちの旅」は、吉祥寺が舞台で、
井の頭公園やサンロード商店街などがよく映っていました。
「カーすけ」「オメダ」「ぐず六」。主人公たちが、『何でもやります」的な仕事を始めるのですが、
『便利屋』という商売が世の中に出始めたのは、このテレビよりも後だったような気がします。


  三鷹グラウンド (社会人・テニス部時代)
当時、テニス部の練習には、吉祥寺からバスに乗って行っていました。
練習終わりに、よく吉祥寺で飲み会が開催されました。(マネージャーだったので、手配は富太郎。)
よく行ったのは、バスから立ち飲みしている人たちが見えた焼き鳥の『いせや』(数年前に、建て替え)。
行くと必ず誰かが水戸黄門の「人生楽ありゃ、苦もあるさぁ♪」と歌っていた、『スナック 桂』。
50代くらいのマスターと、20代と思われる笑顔の素敵なお姉さんの関係がとても気になった
『スナック マウンテン』 (途中で公園通りに移転)。


ま~ぁ、楽しかったこと。テニスに行ったんだか、飲み会に出たくて行ったんだか。
テニスだけじゃない、濃密な人間関係を経験させていただきました。

こんな「変人」富太郎に、居場所を与えていただき、


テニス部の皆さんには、感謝しても、感謝しきれません。
今後とも、よろしくお願いします。
ちょっと、もう、テニスには参加できませんが・・・。

ちなみに、奥の吉祥寺ご用達は、南口のアウトドア系
「LLBean」と北口の癒し系ねこの雑貨洋品店「ひこう船」。
好みがよく『わからんちん、バックブリーカー』。


     頑張れ、渋子!     富太郎


 「フォト:インターネットで見つけた改装前の「いせや」
    2階の座敷には、店裏の階段から上がりました。」



富太郎の日常18 『判官びいき』              令和2年12月 5日

『甲子園人気という不思議なものがある。甲子園で人気が出るのは、地方予選をチームワークだけで
勝ち抜いてきたような小味なチーム・・・』というアサヒグラフのある年のある試合のコメントが
ずっと頭から離れません。好きだから。

子供の頃、甲子園の時期は、テレビの前から動きませんでした。朝から晩まで高校野球。

不思議に思っていたのは、「なぜいつも応援している学校が負けるんだろう・・・?」
だいぶたってから気が付いたのは、「弱そうな方の学校」を応援するから。
がっかりすることの方が圧倒的に多かったけれど、番狂わせで勝った時の喜びの大きさと言ったら、もう。

今でこそ、北海道や東北の高校が何年かに一度は優勝、準優勝まで勝ち上がって行きますが、
当時は屋内練習場施設はそんなに整っていなかったろうし、たぶん大阪から北海道や青森みたいな
野球留学なんていうものも、あまり無かったのではないかと思われます。

だから、北国のチームが、中国・四国の野球の盛んな地方の学校に挑んでいく姿に、思い入れたっぷりに
肩入れし、ガッカリを繰り返していました。

昭和53年の一回戦で、福島の郡山北工業が、名門松山商業に勝った時のアサヒグラフの見出しは、
『横綱相手にクールな金星』。あ~ぁ、堪りません。

太田幸司の三沢高校には触れません。みんな応援していたから。というへそ曲がりな富太郎。

北国ではありませんが、子供の頃の試合で一番印象に残っているのが、昭和42年夏の 習志野 対 中京。
中京 は前の年に春夏連覇を成し遂げていて、隙のない「負けないチーム」という強い印象がありました。

その隙のない中京のニ塁ランナーを、習志野のピッチャーが牽制球で刺したのです。
その時の驚きと言ったら・・・。そして習志野が勝ち、たしかそのまま優勝したはずです。

その時の石井投手が、その後習志野の指導者となり、大学で同じクラスになった小川君の時に、
監督としても優勝します。

最近では『美爆音』とかと有名になりすぎて、おまり応援する気にはなりませんが。


高校野球といえば、漫画家の水島新司さんが、81才で引退を表明されました。
この道63年(富太郎の 1.5倍以上)。本当にお疲れさまでした。

こんな時に、大きな声では言いにくいのですが、富太郎は「ドカベン」よりも、
ちばあきおさんの「プレーボール*」派。

なおかつ、「ドカベン」よりも、「あぶさん」よりも

「野球狂の詩」推し。

 

なんといっても、明訓高校は神奈川、
景浦の所属は南海(大阪)だけど、
東京メッツのホームは「国分寺球場」で、
中心打者は「国立(玉一郎)」と、
まさにご近所(?)チームだから。
ヒロイン水原勇気は、同じ年生まれのよう。

今回も、とっ散らかった話ですみません。

まだ、巨人4連敗を引きずっている 富太郎


「フォト/プレイボール*のDVD。
     50歳の誕生日のプレゼント」




富太郎の日常17 『竹内まりや 私の3曲』         令和2年11月28日













買ってしまった"竹内まりや"の「souveenir the movie」(写真)にちなみ、
『私の3曲』を、新聞で書店員さんが本を薦めるやり方を真似て、ご披露したいと思います。
あくまでも、個人的な思い入れであり、「お薦め」というのとは違いますので、ご注意ください。

 

① 『毎日がスペシャル』 アルバム「ボナペティ!」収録
 ♪「毎日がスペシャル 毎日がスペシャル
   Every day is special day
   ・・・・・
   でも、知っているの 人生とは
   心の持ち方で どうにでもなると
   ・・・・・
   誰もがみんな ちょっとずつ 年をとってゆくから
   何でもない 一日が 実は すごく大切さ ・・・」


 毎日が日曜日の、富太郎が日々感じていること。
 なぜか20代のうちの体育会系1号も、時々口ずさんでいます。



② 『元気を出して』 アルバム「souveenir」収録
 ♪「・・・人生はあなたが 思うほど 悪くない
    早く元気出して あの笑顔を 見せて 」


 高畑充希の出たこのミュージックビデオを見るのが、今回購入を決めた理由の一つです。
 中学生くらいだった女の子が、今や色々なドラマの主人公を務めるほどに。
 時の流れを感じます。


 カウントダウンTVという歌番組のMC"エトちゃん"(日テレの水卜ちゃんの真似?)の衣装は、
 このミュージックビデオの中で、竹内まりや扮するラジオのDJの格好を意識しているのではないかと
 富太郎は踏んでいます。決して、嫌いではありません。



③ 『恋の嵐』 アルバム「REQUEST」「Inpressions」収録
 ♪「Rain、Rain、Rain 窓を打って もっと降って 嵐を呼んで
   Pain、Pain、Pain 恋するほど ついてくるの 悲しみも 」


 初めて東京を離れて、一人暮らしをしたのは、日本海側の雪国。
 古~い中古車(赤いホンダシティ)を買って、休みの日は出かけてばかり。
 何故か記憶は、雨か雪の日が多く、車の中でよく聞いたのが、この曲。


 富太郎がこの曲を好きなのを知っていた、後輩の"みっちゃん"が、ある宴席で歌ってくれたけど、
 曲の知名度低かった(?)のか、あまり受けなかった。みっちゃん、ありがとね。


 若かったあの頃。ある日駐車場に行くと、車のマフラーが錆びて落ちていました。



もう1曲 『みんなひとり』 アルバム「Denim」収録
(「松たか子」に楽曲提供したものを、セルフカバー)
 ♪「荒(すさ)んだ世界に あなたのような人が いることに感謝
   ・・・・・
   誰かのひとことで 明日もがんばると 思えるなんて すてきさ     
   Ah たまには 私を  Ah 頼ってもいいよ ・・・・・ 」

 サラリーマン生活最後の単身赴任も、雪国でした。
 残業を終えて帰るころには、飲み屋さんとコンビニ以外
 お店はみんな閉まっている街。


 コンビニ弁当を買って、帰ったらテレビ。
 そんな時やっていたのが、松たか子主演の「役者魂!」
 というドラマ。で、この歌が主題歌。沁みました。
 いろいろな意味で。


今回は、これでお終いです。また、次回。





 「フォト/日本シリーズ4連敗
      亀井Tシャツを着て、肩を落とす富太郎の後ろ姿
      首には慎之助タオル      / 撮影:奥」






富太郎の日常16 『はあちゃんママとかなもりさん』     令和2年11月21日

宮澤賢治に「アメニモマケズ・・・」という詩があります。

子供たちが小さいころ、地方の支店の社宅に住んでいて、近所に同じ幼稚園に通う女の子の一家に
とても仲良くしてもらっていました。

タレントの柳原可奈子のママさんネタにあったように、お互いに「○○ちゃんママ」と呼び合うのが、
この世代のおうちでは、お約束のようで、そのママを「はぁちゃんママ」と呼んでいました。

ある平日、体育会系1号が体調を崩し2号をおぶって(うちの奥はペーパードライバー。免許取得後2~3回
しか運転をしたことがない。)町のお医者さんへ。

終わって帰ろうというときに急な夕立で、病院の玄関で立ち往生。タクシーがすぐに来てくれるような
土地ではなく、途方に暮れていたところ、軽自動車がスッと止まって、はぁちゃんママがにっこり。

『病院に行くって言っていたから。』と迎えに来てくれたそうです。
富太郎は、事あるごとに、この時の話を思い出します。

ちなみに、はぁちゃんママは、子育てを終えて、看護師さんに復帰。はぁちゃんパパも看護師さん。
はぁちゃんのお姉ちゃんも、看護師さんになりました。

コロナで大変な時期ですが、体調に留意され、元気で優しいはぁちゃんママでいてくれることを祈ります。

余談ですが、はぁちゃんパパの甥っ子は、甲子園に出て、もう引退しましたが、プロ野球選手でした。
テレビの野球中継で映った時には、富太郎も全力で応援しました。
ある年の年賀状に、最近も話題になった某有名選手と一緒に写ったはぁちゃん一家の写真が・・・。



コロナといえば、今年の就職活動は、コロナの影響で、インターネットでの面接で、一度も直接会わずに
内定を出した会社もあるとか。

富太郎が就職活動をしていた時(「ナンバー」というスポーツ雑誌が創刊された時期で、創刊号の表紙と
特集は世界のホームラン王の王選手だった。)は、企業の若い大学の先輩が、学校まで企業説明に来て
くれて、質問にも答えてくれ、その後アポを取ると、職場で個別にお会いし、見学もさせてくれる。
そんなシステムでした。

かなもりさんは、リクルーターとして説明会に来てくれた先輩で、富太郎はその後、かなもりさんのいた
渋谷支店にお邪魔しました。
お話を伺い、職場内を案内してもらい、支店長にも会う時間を取っていただきました。

当時の就職活動をしていた人は、みんなそうだと思うのですが、訪問したOBにはお礼の手紙を出しました。富太郎も、お邪魔した先輩方皆さんにお礼の手紙を出したのですが、かなもりさんから(だけ)、
お返事をいただきました。
そこには「私をどんどん使ってください。」という趣旨のことが、書かれていました。
『こんな先輩のいる職場で働きたい。』と強く思ったものです。

前にも書きましたが、富太郎はテニス部。かなもりさんは野球部で三塁を守っていましたが、
時々グランドのロッカールームでお会いすることがあり、声をかけていただきました。

「公庫、良いところだったでしょう?」という一言がとても印象に残っていたので、退職の挨拶状に
『かなもりさんがおっしゃったとおり、公庫はいいところでした。』と書いたところ、
お返事をいただきました。
「本当に入り口からの出会いでしたねぇ。公庫に満足してもらえてうれしいです。』

「テニス、ゴルフ、野球、読書、そして飲酒」と毎日とてもリズミカルに暮されているとのこと。
いつまでも、お元気で。



 宮澤賢治の詩は、こう結ばれています。

「サウイフモノニ 
  ワタシハナリタイ」


         感謝とともに  富太郎




「フォト/今日から日本シリーズ。
    前評判は芳しくありませんが、
    今年もこのユニフォームを着て、
    テレビの前で応援します。   」










富太郎の日常15 『国立東(私の東京百景2)』       令和2年11月13日

 前回の東京百景は、大学通りの国立高校までお話をしました。
今回は、その続きで、国立高校の手前を左(東向き)に曲がると、隣が国立一中、その隣が、国立三小。
国立三小のところをもう一度左(北向き)に折れて、三小通りを進むと、変則十字路に突き当たり、
その右側の先に『多摩蘭坂』があります。 


 『多摩蘭坂』は亡き忌野清志郎さんの歌で有名で、今もファンの聖地として、命日にはファンが集まると
か。ちなみに清志郎さんは、富太郎の中学の先輩です。会ったことはありませんでしたが。


 多摩蘭坂に向かう交差点を逆に斜め左に入ると「旭通り」。国立駅につながっています。
旭通に沿って歩いていくと、左側にケーキの「マロニエ」。富太郎は20代の頃から、ここの『サバラン』が
ケーキ界のNO.1だとずっと変わらずに思っています。
 その先の右側が「佐藤医院」。富太郎はこの病院でインフルエンザの予防接種をしてもらいました。


 もう少し行くと「クリーニングの取次店」があったのですが、今年の夏に閉店してしまいました。
実は、このクリーニング屋さんは、細田守監督の映画「おおかみこどもの雨と雪」の中で、子供たちの父親
であるおおかみ男(彼)がアルバイトをしていた店だと思われます。アニメーションでは店構えが本当に正確
に描かれていました。この父親が独身時代に住んでいたのが、お隣の国分寺市。母親(花さん)が通っていた
大学は、「東京のはずれにある国立大学」ということなので、おそらく一橋大学でしょう。二人が大学通り
に面した「白十字」というケーキ屋の前で、落ち合うシーンもありました。


 映画といえば、旭通りのこの辺りに『国立スカラ座』という国立唯一の映画館がかつてありました。
富太郎も20代の頃ここで、原田知世主演(当時角川三人娘といわれていた)の『愛情物語』という映画を
見た記憶があります。主人公はバレリーナの卵で、オーディションの願書を出しに行ったのは、なんと、
大学通りの「金文堂」という文房具屋の前にあったポスト。投函したあと両手で拝むというシーンが、
映し出されたので、富太郎は映画終了後すぐに、そのポストを見に行ったのは言うまでもありません。
 国立スカラ座の場所があいまいだったので、調べて見たのですが「旭通りに面していた。」という記述は
あるものの、正確な場所を示したものは見つかりませんでした。閉館時何かあったのでしょうか。
 ちなみに金文堂は白十字の2、3軒駅寄りです。


 国立駅近くに大学通りを挟んで「金文堂」ともう一軒「よしみや」という文房具屋さんがありましたが、
9月末で閉店しました。昭和14年から81年間続いていたお店だそうです。毎月15日は10%OFFでした。
たぶん持ちビルなので、跡にはテナントが入るのだとは思うのですが・・・。なんだか、ちょっと残念。


 ここまで来ると、国立駅はもうすぐです。閉まるお店もあれば、新しく開店するお店もあります。
駅の改札の外にあるnonowaEASTに、6月「スタバnonowa国立店」がオープンしました。
この店は、「手話が共通言語の国内初の店」ということで、話題になりました。耳の不自由なスタッフさん
もいるとのこと。国立には北口からスクールバスの出ている『立川ろう学校(住所は立川市)』もあります。
何年か前の24時間テレビで、嵐の松潤と一緒にタップダンスを踊ったのは、ここの生徒さんだったかと思い
ます。あの「やり切った感」には、感動しました。もしかしたら、駅のあたりで会ってるかもしれないし。


 国立は、春は桜。秋は銀杏。例年だと12月になると「ホワイトイルミネーション」が輝きます。
ぜひ一度、足をお運びください。お待ちしています。
                                  国立大好き  富太郎

「フォト/秋の大学通り。画像提供:国立市」

















富太郎の日常14 『ふくい・ふくしま』           令和2年11月 7日

「越前がに漁」解禁のニュースを見ました。
 そういえば、テレビで、会話の中で「腹囲」と「福井」を間違えて、会話がかみ合わないという
メタボがらみのサプリのCMをやっていました。

 ちょっと前には『特定保健指導は効果がない』との報道もありましたが、指導を受けた経験が多々ある
富太郎としては、効果がないのは、指導に問題があるのではなく、受ける側の意識の低さであると、声を
大にして言いたい。きちっと指導を守れば、体重は減り、ウエストは細くなるのです。(ちょっと自慢。)
指導していただいた歴代の保健師さんに深く感謝いたします。

 福井といえば、ゴルフ仲間の"ごうださん"が、定年を機に福井の大野市に転居されました。
暑中見舞いをいただき、「休日は山歩きや薪割りなどゆっくりと時間が流れる」由。
コロナが収まったら、ぜひ一度足を運ばせていただきたいと思います。
ゴルフもいつかまた、ご一緒させてください。

「福」がらみで、『ふくしま』といえば、"綾瀬はるか"が思い浮かびます。
主役の大河「八重の桜」の前半の舞台が会津で、その縁か、JRの福島CMに出ているのをよく目にします。
「八重の桜」で印象に残っているのは、会津城を官軍に明け渡すときに、綺麗に掃除をして磨き上げ、
官軍の指揮官"反町"が土足で上がり、後ろを振り向いて、自分の足跡をみて愕然とする。泣けます。
お父ちゃんの『ならんものは、ならん。』という言葉も、今の自分を顧みて、心に刺さります。

 また、今一つ富太郎にとって「ふくしま」といえば、同期の"ふくしま君(以下、敬称略)"です。
美男、美声で、「社宅の窓辺で、ギターを弾きながら歌っていると、下に社宅の奥様方が集まって
聞いていた。」という伝説の持ち主です。(本人から聞きました。)

 "ふくしま"は、富太郎よりも一年早く退職していったのですが、富太郎の退職の挨拶状に対して
いただいたメールに書かれていた近況によれば、第二の人生を、これまでと全く違う芸能界に求め、
声優学校、俳優養成学校に各一年通い、今は養成所に通いながらエキストラ等テレビに出たり
しているとのこと。
『道は全然違いますが、お互いに頑張りましょう。今後ともよろしく。』と
エールをいただきました。  やるな、"ふくしま"!!
















そこで、今日の一曲は、堀内孝雄・滝ともはる で、  『南回帰線』
♪♪♪「若さとは幸せを 疑いながら 生きること 追いかける夢が ある限り
    今は遠い あいつとも ライバル同士さ 」

     試験の基準(足切り)点を超えられたようなので、ちょっと浮かれている  富太郎

   「フォト/メールに添付されていた画像。
        テレビでこの顔を見たら、『あっ、"ふくしま"だっ!』とつぶやいてください。 」




富太郎の日常13 『国立大学通り(私の東京百景1)』    令和2年10月31日

 JR中央線、国立駅南口を降りてもらうと、南の方にまっすぐに伸びる道路が、『大学通り』です。
駅前はロータリーになっていて、その中心に丸い植え込みの空間があります。
 車はそこを時計回りに回って進んでいくのですが、この丸い植え込み(横断歩道がないので、渡っていけない)は、実は「円形公園」という公園で、中心には池があるそうです。長年国立界隈に住んでいますが、
富太郎は入ったことがありません。一般人で入った人はいるのでしょうか。国立の謎の一つです。

 今回は、『大学通り』のことを書こうと思ったのに、いきなり寄り道してしまいました。大学通りは、
かなり広い通りで、噂では、緊急時に飛行機の滑走路に使えるようにと幅があり、JR南武線の谷保駅まで、
2キロほど真っ直ぐな道が続いています。(戦前、隣の立川に陸軍の飛行場があった。戦後は米軍が駐留し、
現在は「昭和記念公園」になっている。)

この通りで、毎年11月3日の文化の日を中心に3日間


「天下市・市民祭り」という事業者と市民合同のお祭りが
行われるのが恒例で、大学通りの入り口から、一橋大学の
先まで、屋台と市内の事業者のお店が両側にずらっと並び、
真っ直ぐに歩けないくらいすごい人出があります。
 9月にも市内にある谷保天神のお祭りがあって、
こちらも賑わうのですが、今年はコロナでどちらも
中止になってしまいました。「お祭り大好き富太郎」
としては、残念でなりません。
 そんな中、「うちの店だけでも天下市をやるぞ」と
こんなポスター(写真)を出しているお店も。
国立界隈の人は、ほんとに『お祭り好き』だと感じます。
来年こそはぜひ。

 大学通りを5分程歩くと、両側に「一橋大学」。国立は大正末期に、この一橋大学の移転に伴い開発され、駅も作ら れたようです。福山雅治主演のドラマ「ガリレオ」でも撮影に使われていました。
我が家から一番近い大学ですが、 家族一同まったくご縁はありませんでした。残念。

 大学通りの左側を歩いて、一橋大学のちょっと先に
『レ・アントルメ』という洋菓子屋さんがあります。(写


ここのオーナーパティシエは、TVチャンピオンで優勝も
しており有名ですが、甘いもの抑え気味(本当は 甘党)の
富太郎としては、嵐の桜井君が主演したドラマ
『謎解きはディナーのあとで』の中で、主人公影山が
洋菓子店の店主に野球対決で負けて、クリスマス・イブ
の日に店の前で、クリスマスケーキの販売員を やらされ、
それを北川景子扮するお嬢様も手伝う場面が印象的です。
そのお店(の撮影場所)がこの「レ・アントルメ」です。
そもそも、このお話自体が『国立』を舞台にしているので、
それらしきお店や学校が、そこここにあります。
作者の東川篤哉さんは、妙にこの辺りに詳しい。
お隣の国分寺市を舞台にした学園物も、ありました。
(主人公の女子高生は、何故かカープファン。)

 大学通りをさらに進んでいくと『都立国立高校』があります。都内有数の進学校ですが、やはり我が家は
ご縁がありませんでした。残念。
 富太郎的には、『国高』といえば1980年の夏の甲子園。都立高校として初めての甲子園出場を果たしました。その時のエース市川君らチールメイト4人が、その後東大に進学し、六大学野球で「東大旋風」も巻き起こします。監督も市川さん(エースの親戚ではない)で、市内でテーラーを営んでいたと記憶しています。
 『国高』は、初戦で当時全国屈指の強豪校「箕島高校」に5対0で敗れはしましたが、まさしく「あっぱれ」でした。
 1980年といえば、富太郎が社会人になった年で、同じ職場に"ふるちゅうさん"という怖いおじさんが
いたのですが、このおじさんが国高野球部のOBで、大興奮状態。ОB会の連絡に明け暮れていて、
課長も「終わるまではしょうがない。」とあきらめ顔だったのが、とても強く印象に残っています。

 まだまだ、国立についてお話ししたいことはたくさんあるのですが、いずれ、またの機会ということで。

             "時をかけるおやじ"と化している    富太郎





富太郎の日常12 『昔取った・・・』            令和2年10月23日

 野球中継で巨人OBの篠塚(以下、敬称略)が解説をしているのを見て、つぶやいた富太郎の常套句。


 『昔取った篠塚。前の年は定岡』


 元の言葉:昔取った杵柄
 意味:特になし。テレビに篠塚あるいは定岡が映ったときにボソっという。


 背景は、篠塚は富太郎と同じ歳で、高校卒業時ジャイアンツドラフト1位。
 で、その前の年のドラフト1位が鹿児島実業の定岡。


 この二人は、第56回(昭和49年)の夏の甲子園にともに出場。銚子商業の篠塚は2年生で優勝。定岡は、
ベストフォー。定岡の鹿児島実業は、準々決勝で原監督(当時1年生)が5番だった東海大相模と対戦。
試合は延長戦にもつれ込み、第4試合だったのでNHKのテレビ中継が途中で終了し、家族でラジオに
かじりついたのが思い出されます。


 この年のベストフォーには、群馬前橋工業、向田-米山のバッテリーも。キャプテン米山は、富太郎と
同じ会社で、社内の有名人。富太郎も大変お世話になりました。
 ピッチャーの向田は、その後早稲田に進学(確か一浪)。
その代の早稲田の4番が、その後阪神にドラフト1位で指名される岡田(富太郎と同い歳)。

 岡田といえば、巨人槇原が甲子園で打たれた、バース・掛布・岡田の、伝説のバックスクリーン三連発。

その時の阪神4番掛布は、習志野高校の出身。
掛布の代の習志野の4番は、キャツチャーの阿部。


その後、中大でも活躍。
 阿部の息子が慎之助。巨人の現二軍監督です。
と、ずっとつながっていくのです。


 このように熱く語る富太郎に対し"うちの奥"の
反応の常套句。
『わからんちん、バックブリーカー』
元の言葉:アルゼンチンバックブリーカー(プロレスの技)


 まあ、夫婦といえども、
「君は君 我は我なり されど仲良き」武者小路実篤
 かぼちゃの美味しい季節      富太郎



 「フォト/去年このユニフォームを着て、日本シリーズを
  テレビの前で応援するも、ソフトバンクに四連敗。
  今年は、お願いしますよ、原監督~」