富太郎の日常100 『野球小僧』

 節目の100回目のテーマは、『野球小僧』です。 富太郎は子どもの頃、まさに『野球小僧』でした。

 ♪「子どものころから、エースで4番・・・」 将来プロに行くような選手はこうなのでしょうが、

『野球小僧』は、とにかく野球が好き。 たとえば、しおだ君は、試合の日はうれしくて、早起きしてあち

こちの友達のところへ行って、キャッチボールをやりすぎで、試合が始まるころには疲れて、活躍できず。

合格祝いに硬式のグラブを買ってもらったけど、国学院久我山に進学も、レベルが高すぎて入部せず。

 メジャーで大活躍している大谷選手は、「野球大好き」感一杯ですが、漫画の主人公を上回る活躍は、

もはや『野球小僧』とは呼びにくい。富太郎にとっての『野球小僧』の代表は、80回大会の夏の甲子園、

敦賀気比高校(今年の大会にも出場)の『1番ピッチャー東出君。背番号1』。しかもキャプテンで、

塁に出れば、次つぎと盗塁を決める。富太郎は「嗚呼、野球小僧だ!」と羨ましいやら、悔しいやら。

高校卒業後は、広島の二塁手として活躍しました。先日引退を発表した内海投手は、高校の2年後輩です。

 今年も出ていたといえば、日大三高。小倉監督は、富太郎と同じ歳。中学ではエースで4番だったけど、

高校では、背番号13の補欠。東京都予選の唯一の打席は、デッドボールで、相手ピッチャーに文句を

言ったとか。この年に同じ中学のやはり「野球小僧」ぼん君が、野球がやりたくて日大三高に進みましたが

うちの中学には野球部がなく(まだ中学のクラブチームはなかった)、実績のない ぼん君 は、相手にして

もらえず、退部してミュージシャンの道へ。 同じく「野球小僧」みつぐ君は、野球がやりたくて早実に

進みましたが、相手にされない中、先輩に駅でちゃんと挨拶しなかったと怒られ、退部。以後、不明

 唯一、「よっ、野球部!」と言えそうなのが、バスケ部だった うちの君(左投げ・左打ち・投手)。

佼成学園に進み、2年時にチームが夏の甲子園に出場し、ベンチには入れなかったものの、甲子園練習で、

しっかりと甲子園の土を踏んだのだとか。 その後も、大会ではベンチに入れなかったらしい・・・。
 富太郎は? 坊主頭が嫌で、野球部には入部せず。 ある意味、一生の後悔・・・。

子どものころ夢だった甲子園出場が、どれだけ大変な事なのか。「野球小僧」はみな、思い知るのです。

 大人にも「野球小僧」はいます。職場の白井先輩。毎年ドラフトの時期になると「名前を呼ばれるんじゃ

ないかとドキドキする。」と言っていたのですが、母校(札幌南)が約60年ぶりに甲子園出場を決めると

大喜びでアルプススタンドへ。「行ってきました 夢甲子園!」の残暑見舞いが、しっかり届きました。

さらに翌年の年賀状にも「夢甲子園」の文字が。 なんて、羨ましいんだっ!。

 富太郎は一時期、カラオケで『野球小僧(1951年灰田勝彦)』を歌っていました。
♪「野球小僧に逢ったかい 男らくて純情で 燃える憧れ スタンドで じっと見てたよ 背番号・・・」

 すると、対抗上?横山先輩が歌ったのが『男の友情 背番号・3(1959年石原裕次郎)』。
♪「背番号・3 言わずと知れた 男、長嶋イカスじゃないか・・」『野球小僧』は皆長嶋が好きだった。

そして横山先輩の母校(安積高校)は、初の21世紀枠で甲子園初出場。先輩のニコニコ止まらず・・・。

 だから、幾つになっても『野球小僧』はやめられないのです。


 まさかの足切りで、記述式の採点に

 進めてもらえなかった   富太郎

 午後択一が・・・、1問足らず。


 「諦める? 
  諦めたらそこで試合終了ですよ?」

  と安西先生。


 フォト /野球伝来150年ステッカー

    甲子園のバッターボックスの選手も

    ヘルメットに貼っていました。

    NO BASEBALL NO LIFE



2022年08月19日