富太郎の日常73 『札幌五輪1972』
東京五輪からそんなに経っていない感は否めませんが、北京で冬季五輪が開幕します。
日本での冬季五輪は、「長野(1998)」も忘れてはいけませんが、富太郎的には中2の時の「札幌五輪」が
強く印象に残っています。今回は、「札幌五輪」の思い出をいくつか。
〇 日の丸飛行隊
「ゼッケン45番、笠谷君、ニッポン」 1972年2月6日の日曜日。宮の森ジャンプ競技場で、その快挙は
生まれます。一回目1位につけていた笠谷選手が二回目のスタートにあたり、アナウンサーは叫びます。
「さあ笠谷、金メダルへのジャ~ンプ。」「飛んだ、決まったぁ!!」冬季五輪日本初の金メダル。
2位に金野、3位にベテラン青地。表彰台を日本が独占しました。
当時の日曜日、富太郎は英語があまりにもできなくて、近所の大学生のお兄さんの所へ教わりに行かされ
ていたのですが、何時もは厳しいお兄さんも、この日ばかりは一緒にテレビを見せてくれました。
そしてこの結果を受けてお兄さんのお母さまが言った一言「このためにオリンピックを日本に誘致した
んだものね。」が、深く心に刻まれた富太郎でした。
実は一回目でもう一人の日本代表、藤沢選手が4位につけていたのですが、残念ながら2回目が失敗
ジャンプとなり、1位から4位までの独占とはなりませんでした。藤沢選手にも拍手を・・・。
札幌五輪から約25年後、富太郎は転勤で札幌に住みます。当然、大倉山の「オリンピック記念館」に
出向き、そこにゼッケン45番を付けた赤と黒のジャンプスーツの展示(天井から飛んでいるように吊り下
げられていた)を見て感動し、「このジャンプ台で金メダルを取ったのかぁ。」と言ったら、地元の人に
「ここは90m級のジャンプ台で、金を取ったのは70m級で宮の森。」と訂正され赤面。おい、おい。
そう言えば、テニス部の合宿でモッチが『笠谷の真似』をよくしていましたっけ。昭和のことです。
〇 ジャネット・リン (米国のフィギアスケート選手。当時19歳)
銀髪のショート・ヘア。スピンの時にすっころんで尻もちをついてしまったけど、最後まで笑顔で
滑りきって、銅メダルを獲得。外国人選手なのに当時の人気は”真央ちゃん”並みでした。
帰国の際、選手村の部屋のコンクリの壁に「Peace & Love」という落書きをしたことさえ、
話題に。その後選手村はアパートとして使われることとなり、落書きは消されてしまったようです。
東京五輪の選手村も、分譲マンションとして売り出されて、開催延期で引き渡しが遅れ、もめていたよう
ですが、どうなったでしょうか。
その後、人気選手として「カルピス」のコマーシャルにも出ていました。
♪『リンリン カルピス リンリン』 懐かしい~。
〇 虹と雪のバラード (大会テーマソング トワ・エ・モア)
♪「虹の地平を 歩み出て 影たちが 近づく手をとりあって・・・」
冬季五輪と言えば、この歌。今でも、札幌地下鉄の駅の発車メロディーに使われているのだとか。
トワ・エ・モアは、男女のデュオで、「ある日突然」「誰もいない海」「空よ」などが当時売れていて、
この「虹と雪のバラード」で紅白にも出ていました。今もデュオで活動しているようですが、一時女性
ボーカルの”白鳥恵美子”さんがソロ活動をしていて、CMで歌った「AMAZING GRACE」が流行りました。
富太郎は今、この曲が収録されたカセツト(キングレコード)を聴きながら、この文章を書いています。
昨年、札幌市が2030年の冬季五輪の誘致を決めたとの報道を目にしました。東京五輪で、生の競技を
見る機会をコロナのせいで失ってしまいましたが、札幌でいま一度オリンピックが開催されれば、もう
ワンチャン富太郎もナマオリンピックを見る機会が得られるかも・・・。韓国、中国とアジアでの冬季五輪
が続けて開催されているのは、ちょっと気がかりではありますが。夢よ、もう一度。
そして、頑張れ、ニッポン!!!
北京冬季五輪日本選手団に、早大出身者が多い
ことが気になっている 富太郎
(「羽生君も早大出なんたぁ。」と言ったら
『KAT-TUNの中丸君も早大出だよ。』と
返してきた奥。 知ってんなぁ・・・!?)
フォト/札幌五輪の記念バッジ
当時も、資金集めのためにも作られた
のでしょうが、入手の経路は全く
記憶にありません。
(映像が不鮮明で、恐縮です))
追 伸
開会式は今日ですが、
事前に始まった、女子アイスホッケーの
1次リーグ初戦で「スマイルジャパン」が
スウェーデンに3対1で快勝。パチ、パチ、パチ。
やっぱり、血が騒ぎだしました。
時差があまりなくて、よかったぁ。
寝不足の心配なし。