富太郎の日常49 『夏の甲子園』
連日の熱戦に水を差すようで申し訳ないのですが、
今年の甲子園に、今一つ身が入らない 富太郎 です。
何故か?
● 五輪ロスを引きずっている。
● 贔屓の「地方予選をチームワークだけで勝ち抜いてきたような小味な学校」がことごとく負けている。
⇒ 明徳義塾、智辯和歌山等、贔屓とは真逆の学校ばかりが残っている。
● 北海道、東北、関東、東京、東海勢がベスト8に残れずすべて姿を消すのは、103回の大会史上初。
⇒ 子どものころ、いわゆる東日本(静岡県より東。お正月にやっていた「かくし芸大会」の東軍西軍
のくくり)は、なかなか西日本の学校に勝てなかった。愛知、関西、広島、四国の学校が、
圧倒的に強かった。 自称「江戸っ子」の父親がよく言っていたのは、
『まずは東京代表を応援し、負けたら関東。それもみんな負けたら東日本の学校を応援するんだ。』
ある意味、富太郎の判官びいきは、父親譲りかもしれません。
とうとう「ベスト4は、関西勢が独占」の見出しが・・・。嗚呼!
● 注目していた(秋田)明桜高校の風間球打投手が、明徳義塾に2回戦で負けてしまったのだけれど、
明徳の「1球でも多く投げさせて、中盤以降勝負」作戦で、6回で139球も投げさせられて2失点。
明徳の監督は、「松井5打席連続敬遠」を指示した馬淵(呼び捨てで失礼)!
しかも、終了後のインタビューで『風間君ぐらいのスピードは、いつもフリーバッティングで練習
している。選手に聞いたら、『速いことない』って言ってました。』だと。
あの5敬遠から30年近くたち、同じ学校で指導を続け、優秀な選手たちが集まっているということは、
監督としては一流なのかもしれないけれど・・・。
そんなわけで、テレビ観戦(応援)にまったく力が入らないので、『アサヒグラフ増刊』で
過去の甲子園の熱戦に浸っています。
取り出してきたのは、松井が5連続敬遠された、1992年第74回の「甲子園の夏」。
表紙は松井かと思ったら、優勝した「西日本短大付属」の優勝の瞬間でした。
問題の試合は、8月16日(晴)の第三試合(13:12~15:19) 観衆5万6千人
明徳義塾(高知)3-2星稜(石川)
アサヒグラフのページ見出しは、『明徳、松井を全打席敬遠 怒号のなか胸張れぬ勝利』
写真に添えられたコメント
・明徳義塾の校歌が流れる中、スタンドからは明徳に前代未聞の「帰れ」コール。
異様なまでの雰囲気の中で、星稜ナインは、何を思ったのだろうか。
・完投した明徳義塾の河野投手。徹底した松井への敬遠に対する場内のブーイングをものともせず、
あくまでも冷静なピッチングを貫いた。「チームが勝つことが大事」と試合後語った。
●『負けるための作戦を立てる監督はいない。私は確率を選んだ」(明徳・馬淵監督)の記事。
記事は、こう締めくくられています。『立ちすくむ松井の左手が握りしめる帽子の裏には、”冷静”と
書かれた小さい白い布が縫い付けられていた。』
秋田県には、2度勤務し、都合6年以上住んだので、思い入れは深いです。
3年前の「金足旋風」はもちろん、1989年の71回大会で明桜の旧校名「秋田経法大付属」が1年生エース
中川投手(のちに阪神ドラフト5位)の活躍で、ベスト4まで勝ち進み、準決勝で帝京に負けたときに
秋田市内に住んでいて、大盛り上がりだったことを覚えています。
この時の決勝は 帝京対仙台育英 。帝京のエースはとんねるずの番組「リアル野球盤」で 帝京チーム で
出てくる 吉岡投手(近鉄等で活躍)。仙台育英のエースが早稲田やプロで活躍し、現在は高校野球の
指導者になっている 大越投手 。夏休みで実家に帰っていた富太郎が、気分は東北人で、仙台育英を応援
したら(当時、深紅の大優勝旗は 白河の関 を超えていなかった)、家族から「(東京を応援しない)
裏切者」と言われてしまいました。結果は2-0で帝京の優勝でしたが。
そんな郷土意識も、高校野球熱が盛んな一つの要因だと思うのですが、新聞の投書欄に秋田の男性(75)
から、『毎年、夏の甲子園大会で秋田県代表を応援するのが楽しみです。しかし、今年は戸惑いを感じ
ました。出場校のベンチ入りした選手がほぼ県外出身者だったからです。もちろん、選手をせめるつもりは
ありませんが・・・』との投書が。こんな記事をみる機会が増えたことも、高校野球のワクワク感が
少し減ってしまった理由かもしれません。歳かなぁ。
やっとコロナワクチン注射の予約の取れた 富太郎
フォト/フサヒグラフ増刊1992年「甲子園の夏」 明徳義塾対星稜 のページ