富太郎の日常251『私の東京百景15「国分寺」』
モヤさま2で、田中瞳アナが卒業して、後任は新人の齋藤陽アナ。 慶応卒で、高校時代に1年間アメリ
カに留学? 三村さんがムムム顔になってしまいそうな経歴で、富太郎もムムム。 と思っていたら、新顔
恒例の初回「北新宿」を終え、2回目が何故か「国分寺」駅の南口でスタート。 いきなり齋藤アナが、
「私、ここの早稲田ゼミナールに通っていました。地元なんです。」発言。三村さん「慶応なのに、早稲田
ゼミナール?」 おい、おい、国分寺の出身? ちょっと見る目が変わります。 でも、山形の出身だから
「虫も蛙も触れます。」って言っていたよな。 さらに番組が進むと「ここの通りを毎日チャリ通してま
した。自宅からはチャリ電チャリでした。」 と、電信柱に『新町』の表示。 てことは、国分寺高校?
個人情報だから、あまり言ってはいけないのだけれど、あれだけヒントを出せば、答えを教えているのも
一緒なわけで。 そもそも、国分寺市内には「国分寺高校」と甲子園でお馴染みの「早稲田実業」しか
高校はありません。(清野菜名さんの卒業した「日本芸術高等学園」もありますが、専修学校。しかも西国分
寺駅徒歩4分。チャリ不要。) なぁんか、親近感、勝手に増し増し。 国分寺高校は(富太郎の自宅から
1㎞圏内に高校が4校あるので)5番目か6番目に近い高校になります。 行ったことはないけれど・・・。
実は、「国分寺」を取り上げるのは2回目で、前回、富太郎の日常175『私の東京百景11 東京のへそ』
で取り上げた公園(富士本90度公園)の少し先の新町に、国分寺高校はあります。 国立駅北口徒歩25分!
◯ 早稲田実業 (早実) 国分寺駅北口徒歩2分
早実が100周年を機に新宿区から移転してきたのが、2001年。 ハンカチ王子で甲子園で優勝したのが、
2006年なので、その時にはもう国分寺の学校だったのですね。 学生、サラリーマン時代にずっと使ってい
た中央線で、新宿東京方面(上り)で、国分寺駅を発車すると程なく新日鉄のグランンドが左側の土手の上に
見えていたのですが、その跡地に早実は開校しました(武蔵関の早実グランドと交換したとの噂あり)。
実はこの場所は、70年前の1955年に、東大の糸川英夫教授がペンシルロケットの水平発射実験を初めて
行った場所で、『日本宇宙開発の幕開け』はここからと言われているようです。 なぜ、この場所なのか?
戦前この場所には中央工業という陸軍の銃器や機関砲を製造していた会社の南部工場があって(創業者が
南部さんで、陸軍南部式拳銃の開発者)、その廃工場の銃器試射用ピットが使われたんだそうです。
中央線でもう少し行った右側にある東京経済大学も、戦前は中央工業の敷地でした。
◯ 東京経済大学 (東経大) 国分寺駅南口徒歩12分
中央線から見ると、今は敷地一杯に校舎が建っていますが、富太郎が小学生の頃は、広い校庭があって
市内の少年野球大会の会場になっていました。 転校してきたカノウ君が、前は小金井リトルでピッチャー
をやっていて、新設校で初出場であった富太郎のいたチームは快進撃。 最終日は準決勝と決勝の2試合
あるという事で、準決勝に富太郎が先発したらボコボコに打たれて、コールド負け。まあ、ありがちです。
東経大出身の(唯一の?)プロ野球選手が、その昔阪神のエースとして活躍した藪恵一投手。読売テレビで
当時ズームイン朝の「プロ野球入れ込み情報」を担当していた女性アナは、「藪さま」と言っていました。
審査のインストラクターとして出張した先で、懇親会をやってもらったときに、参加してくれたパートさ
んが東経大の卒業生とのことだったので、「阪神の藪さまを知っているか」聞いたら、『知らないが、主人
が、阪神ファンなので聞いてみる。』との回答。次に会ったとき嬉しそうに『主人、藪さん知っていました
』と報告があったので、「藪さんではありません。藪さまです。」と訂正しておきました。なんと鬱陶しい
奴と思われたことでしょう。 ちなみに、東経大の卒業生には、『夜空ノムコウ』のスガシカオさんや、
たんぽぽの川村さん等がいます。
◯ ジャズ喫茶「ピーターキャット」 国分寺駅南口徒歩3分 トミービルB1(南町2丁目)
この喫茶店は、スガシカオさんの大好きな 村上春樹 さんが1970年代に経営していました。 奥さまと
一緒に開店したのは、まだ早稲田の学生だった1974年(長嶋さんが引退した年)で、1977年に千駄ヶ谷に
移転しました。 その期間は国分寺に住んでいて、最初に住んだのは、中央線で国分寺から国立立川方面
(下り)で並行して走ってた 西武国分寺線 がグイーンと右(北)に向かって曲がっていく中央線と西武線に挟ま
れた三角地に建った建物だとか(住所で言うと西恋ヶ窪1丁目)。 ただ、というか、やっぱりというか電車
の音があまりにもうるさくて、中央線の南側、野川沿いの メゾンけやき(泉1丁目)に引っ越されたそう。
村上さんはエッセイに『僕はすごく引っ越しが好きである。』と書いていますので、躊躇はなかったので
しょう。まあ、距離にすると2、300mのようですが。 村上さんが国分寺でお店をやってた頃、富太郎
も毎日中央線を使って、国分寺を通っていたので、もしかしたら天下の 村上春樹 とすれ違っていたかと
思うとちょっと嬉しい、ミーハーな私。 今年こそノーベル文学賞を、ぜひ受賞してほしいものです。
話をスガシカオさんに戻すと、村上さんも『スガさんの歌詞が好き。』とおっしゃっていて、『アフター
ダーク』という作品のコンビニのシーンには、スガさんの『バクダン・ジュース』が流れている描写が出て
きます。 ご本人たちに認識があるかはわかりませんが、きっと『国分寺』つながりによるものではないか
と、例によって勝手に想像しています。 ♪「・・武蔵のここに 国分寺 我らは・・・」
勉強の合間(?)に、インハイ(ハンド)TVだ、
高校野球だ、プロ野球だ、と8月を満喫している
富太郎 それにしても暑い・・40℃だぁ!?
残暑 お見舞い 申しあげます

(甲子園の開会式が夕方になったり、41回目の
出場の北海高校ユニホームが、帽子アンダーシャツ
等が黒基調から、白基調に変わったり(やはり
伝統校の県立岐阜商や、広陵高校もここ何年かで
黒基調から白基調に変わった、はず。)。
選手宣誓にも盛り込まれていましたが、時代や
環境の変化に対応していろいろと変わっていくから
こその「継続」なのだなぁとつくづくと感じる
今日、この頃です。いよいよセリーグもDH制かぁ。
それにしても、新興チームの斬新なユニホームを
『品がない』と感じるのは、昭和のオヤジだから?
あくまでも、あくまでも個人としての感想です。)
フォト/ 『村上朝日堂』 新潮文庫
著者 村上春樹 安西水丸
1984年に発表された村上春樹さんの最初のエッセイ。
78頁の『国分寺の巻』で、国分寺への引っ越し、
ジャズ喫茶開店の経緯が、書かれています。
昭和49年当時、500万円あれば、国分寺で開業
できたこと。 『でも今ではそうはいかない。
国分寺や国立あたりでも土地の値段がずいぶん
あがってしまったし・・・最低2000万円くらい
必要なのではないだろうか。・・・』
値段はともかく、「国立」を認識してもらえていた
ことが、なんとも嬉しく感じられます。
あの、村上春樹だよぉ。