富太郎の日常115 『サッカー』

 「野球派?」「サッカー派?」と問われれば、躊躇なく「野球派」と答える富太郎ではありますが、

W杯は、もちろん見ます。両国の国歌演奏時には、直立不動の姿勢を取ります。

そんなわけで、今回は『サッカー』です。(余りに『ベタ』で、ちょっと恥ずかしいけれど・・・。)

 〇 小学生の頃

 1964年の東京オリンピックで、日本がベスト8に入ったのをきっかけに(富太郎全く記憶なし)、翌年

8チームで「日本リーグ(JSL)」が発足しました。富太郎は少年雑誌のユニフォーム、パンツ、ストッ

キングの色のイラスト記事で、東洋工業、八幡製鉄、古河電工、日立、三菱重工、豊田織機、ヤンマーと

いう日本を代表する企業とともに、「名古屋相互銀行」が入っていたのが印象に残っています。 今でこそ

各地にクラブチームがありますが、その時は「へぇー!」と、とても新鮮でした。 が、翌年降格・・・。

 次のメキシコオリンピックでは、釜本(京都山城高→早大→ヤンマー)杉山(清水東→明大→三菱重工)
等の活躍で、3位決定戦で開催国メキシコに2対0で勝って、銅メダル。

 さらには、1969年に高校総体、国体、高校選手権の3冠を達成した「浦和南高校」をモデルにした漫画

『赤き血のイレブン』が、週刊少年キングに連載、日テレでもアニメ放送されて、「野球小僧」の一部が、

「サッカー小僧」へと流れていきました。
 大学生の時、隣のクラスに浦和南のチアだった子がいると噂に聞いたなぁ。 聞いただけだけど。

 〇 職場のサッカー・レジェンド

 秋田商業のキャプテンで高校選手権に出場した すがわら先輩 には、パターのコツを教えてもらいました。

明大のキャプテンだった むらき先輩 には、「清濁併せ呑む度量を持て」と、人生訓を授かりました。

いまだにどちらも、上手くはできていないのだけれど・・・。

 〇 国立に?

 「こくりつ」ではなく、「くにたち」の話です。 10年以上前から、国立駅の北口のマンションに、

(三浦)カズが住んでいるとの噂が。奥さんの りさ子夫人 を見たとか、(中山)ゴンの奥さん生田智子が

遊びに来ていたとの目撃情報も・・・。 ネット情報によれば、お子さんの学校のの関係で、りさ子夫人と

お子さんだけが、10何年住んでいたのだとか。  もう、転居されたそうです。 なんか、残念。

 〇 ジュビロ磐田

 1993年にJリーグが華々しく開幕したのを、寮の食堂のテレビで見ていたゴンが「すげぇ、すげえ」と

羨ましそうに言っている映像が、富太郎のJリーグ発足時のイメージです。 当時、ゴンの所属していた

「ヤマハ発動機(のちのジュビロ磐田)」はスタジアム等加入の条件が整わず、Jリーグに参加できません

でした。そのヤマハ発動機の最後の監督であり、ジュビロ磐田の最初の監督が、後輩 やまちゃん ご贔屓の

長澤まさみのお父さん(清水東→東農大→ヤマハ発動機)。ちなみに富太郎と同学年。そして、長澤監督の

後任が、ドーハの悲劇のオフト監督。 このオフト監督を日本に最初に招いたのが、先ほどの杉山氏。

 サッカー界って、♪「めぐるめぐる、めぐる因果は糸車・・・」的な? 今回の「ドーハ」然り!

 最後に問題です。 海外でプレーした日本人初のプロサッカー選手は誰でしょうか?

 答え 通説では1977年に 古河電工 からブンデスリーガ1.FCケルンに移籍した 奥寺康彦 と言われて

いますが、実は1975年に台湾リーグでプレーした佐田繁理(さだまさしの弟さん)との少数有力説も。

この説には、「佐田が受け取っていたのは給料ではなく、月10~15万円程度の小遣い名目だから、プロには

非ず。」との強い批判も。 今や日本代表のかなりのメンバーが、海外のクラブチームの所属って、時代は

確実に変わっているのですねぇ。 「ファーストペンギン」あっての今日現在。 偉大です。


 起きた 見た 勝った  やったぁ~!!!

 耐えて、耐えて、耐えて、電光石火

 早起きは三文の徳  値千金   富太郎

 「夢の続きを、ありがとうねぇ!」


 フォト/『ちびまる子ちゃん 9 』集英社

 作者 さくらももこ 1992年6月20日第1刷

 その59『サッカー少年 ケンタ』の巻 

 が収録されてます。

 この ケンタ少年 は、さくらももこ さんの

 小学校の同級生 長谷川健太選手

(清水東→筑波大→日産自動車→清水エスパルス)

 その最後の3コマを引用させていただきます。

その8年後一

ケンタは全国高校サッカー大会の準決勝で

決勝進出への神業シュートを決め

そのままチームを優勝へと導き

とうとうプロのサッカー選手になりました

ほんとに日本一になるんだよ・・・

すごいね・・・

そんなこと まだ誰も知らない

ケンタの大きな夢が

歩き始めたばかりの頃の 思い出です・・・


この本の出た翌年1993年10月

長谷川選手は日本代表として、ドーハの地で

アメリカW杯最終予選のピッチに立っていました。

(現在は 名古屋グランパス の監督です。)



2022年12月02日